誰といつ行く

中山道・佐久の道

体験プランその⑤

佐久市を往還する中山道には岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿、茂田井間の宿の5つの宿場がある。歴史的な遺物も多く残され、宿場の風情があちらこちらに感じられる。そんな古き良き情緒溢れる中山道佐久の道へようこそ。

岩村田宿龍雲寺.jpeg

街道の交わるところ岩村田宿 岩村田宿は江戸から数えて22番目の宿場、内藤氏一万五千石の城下町であった。往還通りの長さは四十三町四十七間、町並みは九町半。 かつて鎌倉時代より地の利を生かし、豪族大井氏が東側の高台に居を構え、その頃より栄え、多くの人々が行き来する土地柄であった。 江戸時代になり街道が整備された。中山道が北から来て西へ抜け、北西の小諸への街道、南へ下って野沢を経て甲州への街道、東の香坂峠を越え上州の下仁田への街道の分岐点であったため、岩村田宿は米穀の集積地として物資輸送上で大きな役割を果たす要衝地となった。岩村田では享保5年になると、市が月に数回開催された。江戸中期の岩村田宿の中心は荒宿で、中山道に並行する円満寺までののぼり坂である。岩村田宿は城下町であったため、本陣、脇本陣はなく、旅籠が八軒あり、龍雲寺や西念寺が本陣の代わりを勤めた。

塩名田宿.jpeg塩名田宿

水と緑の深い塩名田宿 塩名田宿は江戸から数えて23番目の宿場。宿高五百四十五石三斗六升七合。江戸から四十三里十三町十四間。往還通りの長さ十町二間。宿の西方に桝形が残り、東西に長い宿場。本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠七軒。出桁造りの家並み、大屋根の本陣跡など、舗道も整備されている。 宿場を出ると目の前は千曲川で、江戸時代初期には架橋されていたが、千曲川は度々氾濫し、橋の破損に苦心していた。旅人は橋が流失すると渡し船で渡らなければならず、水の深さにより料金が高くなるため、宿場に逗留する方が安くついたという。明治期に入り、舟をつないで橋とする「舟橋」方式がとられるようになった。

八幡宿八幡宿本陣跡.jpeg

穀倉地帯にある八幡宿 八幡宿は小諸藩領。江戸から数えて24番目の宿場。宿高千五百十三石。江戸から四十四里四町十四間。宿往還の長さ十七町二十二間。宿泊施設は本陣一軒、脇本陣が四軒、旅籠屋三軒。塩名田宿との間は一里弱の距離。江戸時代以降、穀倉地帯となったこの地域は、千曲川周辺の米の集散地として慶長年間に整備された。本陣近くのある八幡神社は精細な彫刻のある建造物で、当時の覇者の威信を誇り、貞観元年(859年)滋野貞秀により創建されたという。豪族望月氏は鬼門除け神社として信仰した。

望月の町.jpeg望月宿

書とゆかりのある望月宿 望月宿は江戸から数えて25番目の宿場。宿高八百五石五斗一升五合。往還通りの長さ二十七町七間。町並みは南北へ六町余。江戸時代には本陣、脇本陣、問屋のほか百四十二軒が軒を並べていた。現在も当時の建物が多く残り、出桁や格子、うだつが宿場の雰囲気を静かに物語る。望月宿で現存する建物で最古のものといわれる旅籠「大和屋」は国の重要文化財で、当時を偲ばせる「出桁造り」などが貫録の建物。(内部見学不可) 現代の商店と昔の家並みの今昔が融合する、趣ある町並みとなっている。

茂田井間の宿茂田井.jpeg

良質米の産地茂田井間の宿 茂田井間の宿(もたいあいのしゅく)は村高九百六十七石六斗八合。江戸から数えて四十五里二十六町十四間、往還通りの長さ二十一町二間の宿場。茂田井間の宿は望月宿・芦田宿で対応できない大通行の際に、「間の宿」として使われていた。茂田井地方は良質米の産地として名をはせており、小諸藩主や家臣らは茂田井産の米のみを毎年江戸まで輸送させたほどだった。そのような良質米の産地にふさわしく、造り酒屋二軒がある。歌人若山牧水は望月に歌友が多く、吟客として逗留したという。宿のかたわらには牧水の歌碑がある。